□指揮者モニターについて
僕の稼業、レコーディングやPAの現場では「指揮モニ」なるものを使用する事も少なく無い。記憶に新しいものとしては2018年の12月に行われたミュージカル作品、指揮者とほとんどのミュージシャンはオケピットにいたがドラムだけは地下の別部屋での演奏。クリックなどは使わないのでキューボックスだけでは絶対に無理。そこで指揮者の映像と全体の引きの映像モニターを目の前に置いて演奏してた。多くのホールではまだブラウン菅式のアナログモニターを温存して使用している。今や一般家庭でブラウン菅のテレビはとうの昔に絶滅したのに何故こんなに古いものを使用しているのだろうか?
Recording Studioは割と新しいもの好きの人間が多い。もちろんビンテージなものもそれなりに皆好きだ。
最近すっかり少なくなった大型コンソールとラージモニターのあるスタジオに行くとラージモニターの間に液晶やプラズムディスプレーが埋まっている。カメラは複数あってリモート出来るので エンジニアから死角になる奏者を写したり指揮者を写したりする。ベーシストやギタリストはコントロールルームでプレィする事もある。ブースがたくさんあるスタジオで奥の方にあるブースとか、前室でも演奏するって場合はやはりモニターが必要だ。
しかし、今でもいくつかのスタジオでは我慢ならないほどに映像遅延がある。そんなスタジオでは僕はいつも映像オフにしてもらう。頭が混乱して仕事にならない。おそらくミュージシャンからガンガン文句が出たのだろうが、アナログの古いカメラと小型のブラウン菅モニターを温存していてせっかく設備として設置したものは使わず仮設で使ってたりする。「なんとかなんないの?」と聞くと「デジタルだからしょうがない」の答。本当にそうなんだろうか?
昭和音大の学生が卒論のテーマで指揮モニを調べてたので査読がてらまとめてみた。なんでも新国立劇場の新指揮モニの遅延は16ミリ秒におさまってる とか....。遅延の要因や諸々を調べ上げたなかなか素晴らしい卒論だ。
<アナログとデジタル>
映像も音もかつてはアナログしかなかった。
アナログ(analog)は、連続した量、デジタルは時間的には連続では無く、とびとびな値(離散的な数値)として表現(標本化・量子化)することと対比される。現在のテレビはすべてデジタルだ。<よく語られる既知の遅延>
映像を数値に変換することを『量子化』あるいは『エンコード』と呼ぶ。その逆が『デコード』。地デジが遅い問題はこのエンコードとデコードにある。
波を数値にエンコードして放送する、受信した数値をまた波の映像信号にデコードする。この処理はどうしても0秒にはらない。しかも各家庭のテレビ内部で行われるデコードは機械がさまざまなので遅延時間が一定ではない。
かつて、NHKのテレビ放送では、7時や12時のニュースの前に時報を流していた。画面に秒針付きのアナログ時計が映し出され、ポ、ポ、ポ、ピーンの時に長針と秒針が0分0秒を指し示していた。しかし、最近はこの時報は放映されていない。
それは、地デジ化により従来の方式で正確に時報を知らせることは出来なくなってしまったからだ。
地デジに放送使われている動画圧縮規格(MPEG-2)は15フレームを1ブロックとして伝送される。 放送用動画は30フレーム/秒なので、この1ブロックのデータは0.5秒分のデータ。15フレームをインターリーブとして一括で1ブロックとして送るので15フレーム分のデータが全部揃わなければ送信出来ない。15フレーム分のデータ蓄積に0.5秒、15フレーム分のデータ伝送に0.5秒、15フレーム分のデコードに0.5秒必要なので生中継であっても最低で1.5秒程度の遅延が発生する。
ただし、一般の民生用テレビ受像機では0.5秒分のデータを0.5秒でデコード出来ない。地デジ化で高品質な画像や電子番組表等が可能になったのは、 データを圧縮して送信するMPEG-2規格のおかげだが、圧縮されたデータを解凍するスピードはテレビ受像機内のCPUの計算スピードに依存する。したがってメーカーや価格による性能差が大きな遅延につながる。
家電量販店などで多くのテレビが並んで同じ放送を受信しているのを見て欲しい。同じ放送を受信しているのにそれぞれのテレビでかなりのバラツキがあるのは一目瞭然だ。
このようなデジタル放送の遅延時間は、受像機の性能によって異なってくるためあえて時報を表示 していないのである。
つまり「地デジは遅延時間が大きい(1.5〜3秒)」は正しい。
また、高性能で小型、低価格のカメラ、Go Pro などはWifiで簡単に映像をiPadに映し出したりリモートする事が可能で素晴らしく便利なのだが半端ない遅延がある。簡単に実験してみる。iPhoneでストップウォッチを起動。そのiPhoneをGoProで撮ってiPadにWifiで送信。iPadに写ってるストップウォッチとiPhoneのストップウォッチが同時に映るように写真を撮る。左がiPad、右側がiPhone、ストップウォッチは秒の次は2ケタ表示なので320ミリ秒なのか329ミリ秒なのかはわからないが320ミリ秒程度の遅延がある。もしテンポが120の曲なら八分音符1つ分の遅延は250ミリ秒。それ以上遅れてるので間違いなく指揮モニには使えない。
また「身近にある高性能の小型デジタルカメラも遅延時間が大きい」は正しい。
こういった既知の事象から「デジタルは大きな遅延がある」が一人歩きしているのではないか?!
<新国立劇場の新指揮モニの遅延は16ミリ秒>
指揮モニは放送している訳ではない。有線でつながっている。問題はどういった規格でつながっているかだ。学生が卒論を書くにあたりお話をうかがった新国立劇場の場合、HD-SDIという規格。HD-SDI (High Definition-Serial Digital Interface) とは、ハイビジョンに対応したビデオ信号伝送規格、非圧縮よる映像伝送のため、ほとんど遅延のない伝送となる。しかもハイビジョン(1080)なので美しい映像だが従来のアナログと同じケーブルで接続可能。実際リアルタイムが切に要求される大型クレーンや工場の製造ラインなどのモニタカメラ、最近の防犯カメラの多くはこの規格。
では何処で遅延が発生するのか? 実験では受像機側。家電量販店で同じ番組を色々なTVで見て欲しい。安いTVは......
<ディスプレーの選択肢>
現在販売されている受像機はHDMI接続(720、1080p)のものが多い。遅延 はおおむね20ms。コンポーネントやD端子といったアナログ高画質入力を実現できる端子を持った製品は法規制のため少なくなってきている。業務用カメラやスイッチャー、分配器の多くはHD SDI仕様だがSDI入力を持つディスプレーは少ない。高価格帯の業務用がほとんど。
昨今 e Sports が話題になったが、ゲーマー達はディスプレイの遅延にはとことんこだわる。金に糸目をつけない方針で遅延の少ないディスプレイを探しているゲーマーも多く、上級者ほどその傾向がある。彼らにとってゲームモニターの生命線は表示遅延が少ないと言うことだ。ゲーマのニーズは指揮モニのニーズよりは桁違いに大きく、テレビメーカーやディスプレィメーカーにも遅延が少ないことの重要性が浸透してきた。
日本のディスプレイ専業メーカーのEIZOは早くからこの遅延フレーム数を公開し、「ゲームは,モニターで決まる。」というキャッチフレーズとともに遅延フレーム数が業界最速(最小遅延を0.5フレーム)であることをアピールした。
ゲーマーの集う掲示板サイトで「レグザは遅延が大きくて使い物にならない」という書き込みを見た東芝の技術者(ゲーマー)が奮起し、とにかく遅延を抑え込む「ゲームモード」を開発した。最近ではHDMI®2560×1440 60p出力のPCゲームに対応。高精細なPCゲームも、4K入力も可能で遅延時間は驚きの0.005フレーム(約0.83msec)を誇る「瞬速ゲームダイレクト」をうたっている。まさに2桁先の性能でこれならブラウン菅に引けをとらない。
新国立劇場で導入したソニーの業務用モニターはSDI信号上のタイムコード(VITC/LTC)を画面に表示できるほか、外部リモート機能を利用して画面上にソース名やタリー情報を表示させることも出来る。しかし、マルチフォーマット液晶モニターLMD-A170の希望小売価格は348,000円+税、30型4K有機ELマスターモニターBVM-X300の希望小売価格は4,280,000円+税と超高額。一方、民生機ならば「瞬速ゲームダイレクト」REGZA 32V31 [32インチ]の実売価格は36,000円程度と安い。ただしSDI入力は無いのでSDI-HDMI変換が必要(1万円以下で多数発売されている)。
学生さんの卒論の結論は「デジタルは大きな遅延がある」は都市伝説で「地上波デジタル放送は大きな遅延がある」が正しく、「デジタルの指揮モニなど論外」という意見は大きな間違いだった事がわかった。新国立劇場では総合的にシステム全体で16ミリの遅延という現状、もしSDI-HDMI変換とレグザのモニターに変えた場合やその他の技を見つければ、どれほどの改善が見られるのか興味は尽きない。いやぁ、目からウロコ。若い娘はすごいね!!
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